ホモ・デウス(ユヴァル・ノア・ハラリ)

Book
スポンサーリンク

サピエンス全史著者による新作

 
世界的にベストセラーになったサピエンス全史の著者が出した作品。サピエンス全史がでてからというもの、○○全史といったタイトルの本が巷にあふれるようになった気がするが、前作は社会的にも大きなインパクトを残した。前作の原題はSapiens: A Brief History of Humankind(直訳:ホモサピエンス:人類の簡潔な歴史)だったのが本作はHomo Deus: A Brief History of Tomorrow(直訳:ホモデウス:明日の簡潔な歴史)というタイトルになっており、二冊の著作は明確に対になるように書かれている。
 
なので本作を読む上で、サピエンス全史で取り上げられていたような著者が注目していた人類の歴史を把握しておいたほうが導入は楽になる。サピエンス全史では、人類学的な見地から太古の人類の進化を振り返り、文明が出現した後の人類が抱える問題を社会学的、倫理的側面から取り上げていたのが印象的だった。
 

飢饉、疫病、戦争

 
“人類のほとんどの歴史は飢饉と疫病、戦争に悩まされていた。”
 
人類の歴史のほとんどの部分はその日暮らしで、耐え難い空腹と獲物を捉えて久しぶりに食事にありつけるというサイクルの繰り返しだった。昔は疫病の死亡率は現代よりも格段に高かった。ペストはヨーロッパの人口の何割もの命を奪ったし、たった100年前のインフルエンザでは人類は5000万-1億もの命を失った。昔、半分の人間は生まれた30-40年後には死んでいた。現代では先進国の平均寿命は80台にも達しており、日本などは平均年齢でさえ45-50歳と、昔の基準で言えば半分が長老のようなものだろう。もっとも貧しいアフリカでさえ寿命は年々伸びている。また、20世紀は大きな戦争で大量の命が失われたが、昔だってそれに値するほどの大量虐殺は行われていた(ローマ帝国、中国の様々な反乱、ティムール、チンギス・ハーンetc…)。むしろ第二次世界大戦後は核兵器という抑止力によって戦争による死者は減った。現代社会で起こる核戦争のことを著者は「集団自殺」と評している。よっぽどの無謀なリーダーが国に誕生しない限り先進国同士の破壊的な戦争は起こらないと考えられている。
 
もちろん、未だに貧困者は世の中にも多くいるし、ほとんどの感染症を克服しても癌という大きな敵がいる。人間はどこかで病と戦い、そして死んでいく。戦争の被害者は少なくなったが、サイバーテロとか経済的な圧力とか、命を奪わなくても苦しみを生み出す力はある。ただ、長い時間をかけて人類は自らの課題を解決してきた。
 
著者によれば、今後不死と幸福、神性を獲得することが人類の目標になるという。こうした超越した力を得ることで、ホモサピエンスはホモデウスへと進化する。
 

偶像

 
ブランドや権威はその次代に生きる人々の心を支配している。著者によれば大きな権威を奮ったファラオや宗教、エルヴィスのような時代のアイコンは、その本人が何をするかにかかわらずその権威・存在をもって人々の心に影響を与えてきた。心・価値判断を支配することで人々の行動の裏付けをしてきた。自分たちの将来を知るためにはこの世界に意味を与えている虚構を読み解くことも必要になる。
 
現代でもこのような虚構はいたるところに存在する。名前を聞くだけで商品の価値を高める高級ブランドや、Google, Appleのような巨大な会社(実際に商品企画開発をしているのは中の人間なのに)や国家でさえそれ自体が意識をもって行動しているかのような扱いをされる。しかし、現代は、このような価値観の刷り込みに疑念を覚えた人々が長く議論した上で、世代交代を通じて発展してきた。
 

思想

 
“人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する”
 
宗教は人の生涯を通じて大きな価値観を形成する役割を担う。死後の世界という概念を人々の中に植え付けて、現世では(自分たちにとって)良いことを為しなさいというのは信者たちの行動の規範の一つになる。自分の正しさを確信して死を恐れない者たちの戦いになるためか、宗教戦争は常に血みどろだ。教会が偽造文書を使ってまで自らの権威付けをしていたことなどを筆者は糾弾する。
 
冷戦の時代も共産主義と自由主義(資本主義)のイデオロギーの対立だった。それぞれの陣営の中の人達はそれぞれ異なる価値観を当然と思い過ごしていた。結局、自由主義が経済的に勝利を収めているわけだが、共産主義も一時期は自由主義を飲み込むような勢いだった。このような権威の範疇で過ごす人々は盲目的にその中の規範を信じている。
 
ただし、自由主義的な人間主義はもっと個人の判断を重要視するようになった。宗教の時代では知識は聖書と論理で得られていたものが、科学革命では知識は観察に基づくデータと数学によって与えられるものに変わった。ただ、それだけでは行動を決める価値観が欠如していたため、新しく経験と感性で与えられる知識にも重きを置かれるようになった。
 
自分の内なる声に耳を傾けなさいよ、という場面が増えたということなのだろう。医療における選択も似たような側面があると思う。Aという治療方法は1億円かかるけど5年生きられるよ、Bという治療方法は100万円だけど見込みは1年くらい、どちらがいいですか?こうした判断は現代では個人の価値判断に帰せられる側面が大きいが、一昔前であれば医学的な知識を備えた医師の仰せのままに(日本は未だにこの段階かもしれない)、大昔なら神の御心のままに(そもそも選択はなかっただろうが)、という雰囲気だった。ともかく、現代は個人は選択を求められることが多いし、そのかわり選択に対する責任も期待されるようになった。
 

AIとバイオテクノロジー

 
この2つほど昨今を賑わすバズワードも無いような気がするが、ユヴァル・ノア・ハラリ氏もこの2つが人類に大きな影響を与えるだろうと考えているようだ。この2つに無知であることは大きなリスクになるだろう、ということは私も同意する。
 
AIが常に最適な答えを出してくれるとしたら?
バイオテクノロジーがスーパーヒューマンを生み出すようになったら?
 
この2つは普通の人々が活躍する場所を奪ってしまうかもしれない。ただ、これも別に目新しい話ではなくて、50年前の2001年宇宙の旅でも、ターミネーターシリーズでもAIによる危険は人々の不安を煽っている。
 
進化を遂げたホモデウスはホモサピエンスを絶滅に追いやるかもしれないと筆者は警告する。フライングではあったが中国ではCRISPER-CAS9という新しい遺伝子改変技術を使った高精度に遺伝子を編集された赤ちゃんが実際に誕生したとされる。ただ、これらの技術の裏付けをしているデータ至上主義自体に対しても批判的な吟味を通じてこれまで宗教や思想が課してきたような意味付けと同じように問い直す必要があるのだろう。

コメント