生物と無生物のあいだ(福岡伸一)

  2000年代中期にベストセラーになった生物の本。ふと思い出して読んでみた。高校生程度のレベルの生物を習っているとちょうど良く理解が進んで楽しい内容。タイトルになった「生物と無生物のあいだ」という記述は”ウイルス”に由来している。

 

 レーウェンフックによる顕微鏡の開発、そして細菌というそれまで目に見えなかった新しい生命の発見や細胞という我々を構成する単位の発見から、ミクロの世界をめぐる生物学は加速度的に発展してきた。(ちなみにレーウェンフックは本書には登場しないものの、生物学上も重要な人物。Wikipediaでの記載を見るとアントーニ・ファン・レーウェンフックはオランダの商人、科学者、顕微鏡観察マニア。歴史上はじめて顕微鏡を使って微生物を観察し、「微生物学の父」とも称せられる。と、少し不憫にも思える記載がなされている。)

 

 我が国を代表する20世紀初頭の医学者、野口英世の時代にはまだウイルスという概念は無く、野口が必死に研究していた黄熱病や狂犬病に関する病因の研究はほとんど徒労に終わった。後の時代になり、イワノフスキーらによるタバコモザイクウイルスの発見は新しい生物のカテゴリであるウイルスという概念を生み出した。しかし「自己複製するもの」であった従来の生物とは異なり、ウイルスは自分の力だけでは自己複製はできない。そのフォルムも非常に無機質で“無生物”に近いものであった。こうした性質から「生物と無生物のあいだ」とウイルスの事が表現されている。

 

 20世紀初頭の生物学最大の関心はその生命の根源とも言える「自己複製システム」の解明にあった。ブームの先駆けとしてオズワルド・エイブリー(アベリー)という孤独な生物学者がまず登場する。肺炎球菌の形質転換の研究から、遺伝子の正体がDNAであることをエイブリーが解明した。エイブリーが去った後、DNAのミクロな構造についての問題に全世界が取り組んだ。塩基の単位の比率は常にAとTGCが等しくなるという重要な法則はシャルガフにより発見された。そして、程なくしてワトソンとクリックがDNAの構造に関する小論文をNature誌に掲載した。若い無名の科学者によりDNAが二重らせん構造を取るということ、相補的に塩基が結合することで自己複製を行うことが可能であるということがついに明らかになった。この論文は世紀のインパクトを誇り、二人はノーベル賞を後に受賞している。しかし、この発見がなされる前にフランクリンという女性研究者がコツコツと築き上げつつあったX線を使ったDNAの構造解析のデータが実は盗用されていたというエピソードも紹介されており、サイエンスの研究室間の競争におけるダークサイドも垣間見える。クリックはその後「DNAが自己複製をして、DNARNAタンパク質という合成が行われる」というセントラルドグマという概念を提唱する。その後様々な媒介物質が発見され、その正しさは証明されていった。そして、1980年代になるとマリスによりPCR(polymerase chain reaction)法が開発されて、ターゲットとするDNAの複製が可能になり、容易にDNAの研究が行うことができるようになった。

 

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(from: Watson-Crick-DNA-model.jpg )

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(from: watsoncrick.png )

 

本書が出版される何年か前にはヒトの全ゲノムを解読するプロジェクトが終わり、人のゲノム情報が明らかになった。それから年月をかけてゲノム情報の解析はさらに発展して、より大量、高速な解読が可能になった。2016年現在では次世代シーケンサー(NGSnext generation sequencer)が大規模な研究施設では導入され、疾患に罹患したヒトのサンプルからそれぞれの遺伝子変異の部位などを見つけて研究に利用することも出来るようになっている。

 

本書の後半は生物の構造の話から、動的な生命活動の話に移る。原子の物理学で重要な公式であるシュレディンガー方程式を提唱した物理学者、シュレディンガーが書いた「生命とは何か」からの引用として

われわれの身体は原子に比べて、なぜ、そんなに大きくなければならないのでしょうか?

 という言葉が紹介されている。原子の振る舞いの原則はエントロピーを増大する方向に向かうことにある。しかし生物は絶えず物質を取り入れたり吐き出す事で一定の形を保とうとする性質を備えている。そういったホメオスタシスの性質を取り入れる、つまり、物質のもつエントロピー増大の法則に逆らうためには、一定の傾向をもった挙動を示す分子が多量に必要になる。

 砂上の楼閣にも例えられる、絶えず変化を続けながら形を保つ生物の状態のことは動的平衡:ダイナミック・エクイリブリウムという言葉で表現される。タンパク質が生命活動の機能を担う役割をおっており、平衡状態を保つためにタンパク質同士の相互作用(=機能)が研究された。

 

 筆者がポスドク時代に研究していたGP2蛋白にまつわる研究の話はこれから大学や研究機関で研究を行いたいと考えている方にはとても興味が涌くのではないだろうか。昔の話になるので手法などはもうかわってしまっているが、ターゲットとする蛋白を理解するために、DNAから塩基配列を同定していくこと、機能を解析するためにKOマウス(ノックアウトマウス)を作成したり、mutationを起こして異常な機能の蛋白しか産生できないマウスがどのような挙動を示すかによってタンパク質の機能を解析していくということなど、研究の当事者ならではの苦労話などは読んでいて面白い。

 

 本書の醍醐味は研究者が研究者の目線でこの1世紀の生命科学の進歩について語ることにある。リアルな風景が浮かぶ描写にあふれており、その当時の研究者の息遣いを感じるような気分で読み進めることができる。世紀の大発見も教科書にしてしまえばたった数行にしかならないが、エピソードとして読むことで途端に活き活きとして魅力的なものに写ってくる。例えば、学生が歴史を学ぶとき、つらつらと書かれた教科書を読むよりも知識豊富な教師が歴史を語る方がそれぞれのイベントの繋がりもわかり、何倍も理解が深まる。先日書いたばかりの「日本の思想」にも繋がることではあるが、歴史的な視点から俯瞰することで学問の連続性についても実感ができる。繋がりがわかるとより理解も進み、楽しくなる。ぜひ生命科学を学びたいと考える中高生に一度手にほって欲しい、また、自分もとっておくべき本だったと思う。

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