Atul Gawande
Being Mortal: Medicine and What Matters in the Endの翻訳。
Atul Gawandeは現場に立つ医師として医療システムの執筆など、ベストセラーになった本をいくつも書いている米国の医師だ。本書では終末期の医療を通して、医療が患者に提供すべき事を考察している。
臨床の医師として患者の死にたち会う事もある。死にゆく人に治療を施す事で奇跡的に生き延びて望むような人生を送る手助けができる事もある。医師として提示できる選択肢の多くはAという治療とBという治療を比較した時にどちらが優れているか、という比較試験に勝ち残った治療法である。基本的に治療は生存期間を延ばすものが優先される。患者のニードがそうであれば良いが、わずかに生存期間が延びる一方でQOLを破壊してしまう治療は患者が望むものではない可能性もある。著者はそれは本来の医療が目指すところではない、と言う。医療による悲劇を避け、本来の患者が望み叶えるためにshared decision makingは医療における意思決定で重要性を増している。
死とどのように向き合うかは文化的な側面が強く、アメリカと日本でも異なる考え方に行き着く事は十分に考えられる。日本はまだ終末期の医療において患者よりも家族の意向が優先される事が多いように思う。また、一般に家族は患者に厳しい事実を突きつけるのをためらう。最後の判断、残された時間をどのように過ごすか、といった視点まで行き着かない事が多い。患者の認識と医療者・家族の認識のギャップを感じる。しかし徹底的に個人主義を貫く欧米的な考え方と、調和を大切にする日本的な考え方の違いから、このギャップは埋めるのは文化的にまだ難しい。日本では「みんながいいと思っている事」が重要視されがちだ。
本書から学ぶ事は多い。終末期の医療には問題が山積している。それらをどのようにクリアしていくのか、本書には多くの具体例が提示されている。そして筆者自身が父親の終末期とどのように向き合ったのかが記されている。そこには生々しい経験が綴られている。
- 自立した自己
- 形あるものは崩れ落ちる
- 依存
- 援助
- より良い生活
- 定めに任せる
- 厳しい会話
- 勇気
現代の医学教育で教えるものは治す方法論である。医療現場では死は近いものであるはずなのに、医学教育の場面では死について学ぶ事はごくわずかである。社会では、死は病院・ナーシングホームのものであり、疎遠なものとみられている。しかし、死は個人が最後に必ず経験するものである。「死はもちろん失敗ではない、死は正常である」という言葉が引用されている。
近代化した社会では死は遠い存在となる。前近代では高齢者は少なく、敬われる存在であり、家族に囲まれ、家族は望むように尽くしてくれていた。高齢者は好きなように生きることができた。社会が成長するにしたがって、高齢者は一人暮らしをするようになり、できなければ施設に入る、そして死ぬ直前には病院に入院して知らない看護師や医師と日々を過ごす。経済の発展により、高齢者、若年者の立場がかわり、人は自己への崇拝、生き方の自由と自律を尊重するようになった。しかし皆いずれ自立出来なくなる。
医療が発達する前は病気に対してできる事は少なく、病気になる事はほとんどすぐに死と隣り合わせだった。医療の発達により病気になっても寿命を延ばすことが可能になった。また、病気による死のタイミングは不確実であり、多くは戦う事のみを選択肢として考える。しかし死はいずれ訪れるものであり、治療を続けているうちに徐々に体は弱っていく。老化に伴う体の機能の低下は経過が長い。これは正常ではあるが治せず、医療は「なんとかする」しかない。衰えることを認識はできるが受け入れは難しい。また、医療の発展は終末期を過ごす場所を自宅から介護環境がある施設に変えた。福祉の制度により、きちんとしたケアや安全な環境を高齢者が手に入れるようになった。しかし、多くの入居者はそこを自分がいるべき場所ではないと感じている。入居者はケアを受ける環境よりはむしろ自由や価値のある生き方を求める事が多いが介護サービスの中ではそれらは選べないものになってしまっている。
マズローの自己欲求のモデルでは人間の基本的な欲求は生存・安全である、次の段階として、愛情や所属、そして成長が続く。もっとも高次なものとして自己実現がある。アシステッド・リビングとは、入居者の自由を尊重した介護サービスのの一種である。自由が担保される事で入居者は精神的・身体的な健康を得られるようになった。
若い健康な人はかなり先のことを意識する。一方で病人や老人は今ある楽しみを優先する。どの程度の先を見込むかの違いである。高齢者自身は自立の道を選びたがるが、家族や大切な人は本人の安全を選ぶが故に高齢者は領分を侵された気分になる。高齢者はあくまで自分らしく生きることに価値を感じる。人は生きがいを求めるのである。
メディケア(高齢者向けの米国の保険)の25%は5%の患者の人生最後の年のために使われる。人が終末期を迎えるにあたり、準備をしている人はほとんどいない。いざ健康状態が急に崩れるような時、集中治療などの選択肢を取りがちであるがそういった判断がかえっQOLの低下に繋がる事がある。延命以外の望みとして、苦しまない事、絆を深める事、意識を保つ事、重荷にならない事、人生を完結させたという感覚を得る事は重要な要素である。病気と戦う選択肢を選んだ場合の悲劇は、実際よりも予後を長く見積もっていた時に戦おうとしてしまう事である。ホスピスは治療に関して異なった優先順位を提示する。つまり、最終的な目標は延命でなく、「今その時点で可能な限りの豊かな人生を送れるように援助する事」なのである。延命治療について、すなわち心肺蘇生、挿管・人工呼吸器の使用、栄養手段、抗菌薬の使用についてどうするかをあらかじめ決める事は患者のQOLの向上に繋がる事もある。そして、寿命を長くする事が可能になる可能性もある。(肺がんでは実際に証明されている。)
医師と患者の関係性も重要である。情報の伝え方には様々なやり方がある。1つには父権的に医師が選択肢を決めるように提示する方法、もう1つには情報提供を中心に行い、その判断は患者に委ねるという方法、そして、3つめは、患者の望みを解釈し、意思決定を手助けする解釈的な方法である。3つめの選択肢は患者との共同意思決定(shared decision making)を行う。治療の決定の時に患者が自分の時間の有限性について理解することは大きなメリットになる。そして、自分の状態、今後の経過、自分の望みについて理解することは意思決定をアシストする。死ぬ運命が決まっている時に自分がどうしたいのか、どうしたらQOLを改善させられるかを考えて選択肢を選ぶ方法もある。
老いと病気に対する勇気には2種類ある。「死すべき定めという現実に向き合う勇気」、何を恐れ、何に望みを持つかについての真実を探し求める勇気と、「得た真実に則って行動する勇気」である。難しいのは恐れか勇気かどちらが自分にとってもっとも大事かを決めなければならないことである。リスクの高い治療を受けなければ状況が改善されない場合にリスクをどう考えるか、といった形で例示がなされている。行動経済学者のダニエルカーネマンは「記憶する自己」と「経験する自己」を分けることでピークエンドの考え方を提唱する。痛みに関して言えば、その瞬間ごとに痛みを感じる自己がいる一方で後になって残るのは最も強い痛みと最後の瞬間であったりする。
医療の目標とは、最後の瞬間まで生を送らせてあげることである。健康を保つ、寿命を延ばすだけにとどまらず、幸福を追求することである。幸福とはすなわち、「人が行きたいと望む理由」である。現在の状況、これからの可能性を理解することで、恐れ・望みをを理解し、そのために何を犠牲にできるのか、また最善の行動が何かを考える事が医療である。患者のより大きな目標をアシストできるときこそ医療行為がリスク・犠牲を払ってでも行う価値があるものとなる。
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